Just another WordPress site
指輪ringbook.net
意味と意味されるもの、言い表されるものとのギャップ
実際に目に映るものだけでなく、ほぼ多数のひとに認識されている概念、たとえば冬という言葉と実際の冬というもの、こと。どこまでが冬でどこからが冬。丸についても、まんまるも、楕円もだいたい円らしきものもみんな丸と表現されるけれど。誰から見ても丸でないもの、こと。。少数のひとがそれを丸と感じることも。結婚指輪も。
李ウーファンの石とガラスの作品。
石が何でガラスが何じゃなく、なんでガラスに石置いちゃうの的な、それまでタブーでだれもやらなかったような
かなり不可解でどこか落ち着かない組み合わせ。力関係や状況。身体性。だいいちガラスに石置いたら割れそうで怖いし、あぶなそうだし、置くときどれだけ気をつけなきゃいけないか。
しかもどっしりした大きい石。座れそうなくらいの。
そのハプニング的なことろ自体が作品化されている。やめてほしいような、居心地悪いようないたたまれないような。それを抱くひとの気持はその人個々の体験に基づいているからみんな違う。
それまで作品というと、何かせっせとよっこらしょとこしらえたもの、手によってはぐくまれたものを
めでるという方向が大前提だった。見られる、鑑賞されることを前提に描かれたり彫られたり。それも画材とされる材料でここがあたまでここが身体でというふうに。。
けれどこれは石自体にも何も手を加えられていない石。拾ってきたかもしれない、自然界にある岸壁にいまもありそうな石。人工物じゃないブツ。作ってもいないし彫ってもいない。組み合わせただけ。置いただけ。鉄のくさりは人の産み出した工業製品。関係そのものを作品に。
ある意味石と鉄は対極。でも石は地球。鉄も地球の地面の下から。
親子かもしれない。ガラスも既成の何の変哲もないガラス。
ガラス自体が主張するんじゃなく、人の気持ちがゆさぶられる
そんな仕掛け自体が工作されている。
仕組まれている。そこに意図がある。何かの仕組み、ひとの概念のあたりまえな仕組みをちょっとずらしたり、組みかえたり。なにも考えなければ気付かないいつものふつうのこと。それをちょっとだけひねった角度からみせてくれる。気付きを誘導する。頭で考えた世界と実際の現実。ひとは外形のないものを捉えるには相対的なとらえかたが必要。
重たいとか、痛そうとか、危ないとか。そういう気持ち。
いつも慣れた安全なところだけにいる日常があぶりだされるかもしれないし、用途がわかっているものしか意味がないと思っていたり。
アートと知らないお掃除のおばさんがきたら、「誰?こんなところに割れそうな危ない石置いたの?どうやって動かせばいいの?どうやって持ってきたの?なんの儀式?」不思議がるかもしれません。
ものはだいたいあるべきところに、あるべきとされる用途をまとってあるべき位置に置かれているもの。だからその概念の囲いからはみ出すと「あれ?」おかしい、違和感というより、まちがった場所というカテゴリー化されてしまう。
用途だけをはぎとって、ぶつの質感を見てみたり、想ってみるという経験の機会は日常にはなかなかない。役割を背負ったままの物からカテゴリーを剝ぎ取って見せる。主役は物語り。ものとものが出会う出会いの物語。
わかったつもりの言葉の世界と永遠にわからない実際の世界の仲介役がアート。
リチャードセラの鉄の輪も
同じめにあっている。多摩美のグランドに埋め込まれていた輪を工事に入ったおじさんに切断されて教授が真っ青になったという言い伝え。
そもそも東京ビエンナーレの鉄の輪が上野毛の多摩美までなぜセラの作品が連れてこられたのかまでは聞いていないけれど。おそれおおくもリチャードセラの作品が。
NYで大きな鉄の板をたてて危ないからと撤去されてしまった有名な話もあり。
いわゆる造形ではない。いいえ、むしろまったく作りモノの様相を呈していない。作品でございますよ感をいっさい放つことのない鉄板。鉄というだけのしろもの。傾いた孤。
だからそれまでの彫刻と違う。造形物として出来栄えを魅せて拝むといった対象ではない。巨大な金属が鎮座するというと奈良の大仏とか緑青がきれいな自由の女神とかナポレオンの馬にまたがった大きな銅像とかブロンズ像だけれど、そうしたあがめるような、そこに置かれてモノをどうこうたてまつって鑑賞するのが芸術じゃないのですよ、ぴかぴかとかキラキラきれいとされるものが美しいのではないし、あらかじめ定められた金ピカビューティフルなもの、ヨーロッパの古城やら宮殿やら、どこかで前もって刷り込まれた知識が真の「美」というものですかーと言っている。
むしろそこに置かれた空気の方に何かを与えられている。「何か」とは大いなるエネルギーやピーンと張りつめた緊張感やすさまじい威圧感、圧倒的なダイナミックな空間を。心がどう揺さぶられるか、感じたことのない感覚に襲われ、そこのところは受け取る人それぞれだろう。置かれたことによって、置かれたものとの関係によって、作品が成立する。実利でしか考えずにいたそのすべての雑念を剥ぎ取って見せてくれる。そこにある空気にまつわる生活感もしがらみもすべてそぎ落として感覚だけに向き合えるように変貌させてくれる、瞬間的に連れて行ってくれる。そういう装置みたいなしかけが現代美術。
裁判で危ないと言われてリチャードセラの作品が撤去されたあと、その場所はどうなったか。またのほほーンとした普通の空間、いつも何気なく通るだけの広場に戻る。人は実利でしか、ものをみようともしていない、損得だけで判断しているのだね、ほんとうの人間とは何ですか感じる心はありますか?と気付かせてくれるような。それがあるとないとでは大違いな作品。それこそがセラの真髄かもしれない。
そこではあえて感情とか概念をうまく突いている。そういう作品化をねらった作品。何かに気づかせてくれる。それは受け取る側ひとりひとりの気持ちの入る余地も残されている。
ねらいはしっかり作品となってこちらに残る。
でもジュエリーをオーダーメイドしようとするひとは、とりあえずこの金属っていったいなに?と調べてみたりはする。
最近のコメント