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ファッションなんて興味ない、服などまったく気にしないというひとでも服をまとって生活しているし、その服は大人なら着せられているのではない、主体性をもって着ているのです。ひとには選択の自由というものがあるのだから。
着たくてきているのではない、たまたま着ているとはいいつつ、下着のうえにきちんと服を着て歩いているのですから、社会に適合した服装をしているということ。ファッションに興味が無いから私はファッションは関係ないといっている人でもファッションを自らの意志によって、今日のその場にあったものを判断して選んだ服だと言えます。
服なんてなんでもいいのだと言っていても、そのカテゴリーの記号としての服を選んできているわけです。どんな服、どんなアクセサリーを選ぶかは、そうしたカテゴリーに身を置いて、知らないうちにみんなと同じ格好をして、そういうタイプ別のグループの一員になって生活しています。どうやって生活していくか、どういう考えを持って行きていくかも知らないうちにそのカテゴリーの一員になっています。原宿を歩くとき、原宿を歩いておかしくない人の格好をしているし、女性は女性の服を着て、男性は男性ものの服を身に着けています。たまに、男性なのに女装し化粧をし、あえて目立って注目されることに快感を覚えるタイプの人も、やはりそのような女装のルールというのがあり、ヒールをはきメイクをしています。
服装にはファッションにはすべて記号があるのだと思います。指輪もそうした記号のひとつです。
そのひとを構成する記号、要素のひとつになっています。ひとはそうした記号を読み取って関わっています。そしてより社会の一員としてどういう記号になりたいか、意識的にメイクをする男性もいれば、まったく頓着しないと良いながらもその年代にふさわしい服を来てそこに収まっています。
そして寒くなければいいとか裸でなければいいというだけで服をえらぶのではないということです。だれもが社会の中のだれかにならなくてはいられない、何かの顔を持たなければ居られない場所に身を置かれています。社会的ポジションにふさわしい格好と顔をさせられます。ただし、その目に見えない縛りに常にがんじがらめにされているかというと、そうでもありません。社会のポジションそのだれかは誰になっても自由で、ファッションとかモードと言われるものは、その何者かになる手助けをしているのでは?と思ったりします。日によって誰になっても良い、好きなカテゴリーを選ぶことができ、例えば曜日によっては変身する自由があります。ただしフォーマルな場に対する人々の観念は別ですが。
食事もそうです。食べられればなんでも良いならえさになってしまいますし、奪えば良いということにも。人間は秩序の社会で生きて行くいきものなのだと思います。
記号という意味での指輪を東京明治通りで作っている工房があり、その工房の外では大通りの休日の人々に目をやると
明治通り、表参道の日曜日に毎週のように、原発やめろのシュプレヒコールとデモ行進があります。ここのところ雪だったり寒かったりで下火になっています。
原発だけでなく、イランイラク、中国モンゴル、同性愛を認めろなどさまざまなデモ行進があるなか、毛皮を着るな、毛皮を買うな、動物を殺すなとさけぶファー反対とファッションのまち原宿に対して叫ぶデモがあります。これをブルーレーベルの前で大きく叫ぶわけです。ビルの奥にいて音楽をかけていたとしても聞こえるくらいの拡声器の音量です。動物愛護協会のことも理解できるわけで、これにともなってファーを使うことをやめたファッションメーカーもいます。
動物を殺すなという考え方も、野菜しか食べないという選択も、ある思想に偏っているカテゴリーで、そうしたグループに身をおいている人たちがいます。
ひとはそもそも社会生活を始めた時から狩りをして動物を食べ、植物とは違うカテゴリーとして作物を育てて収穫し生きてきました。ある偏った考えによってイルカ、くじらだけかわいそう、毛皮だけかわいそう、でも食べていくには狩りをしてきた歴史があります。花を摘むのもかわいそう、野に咲く花の方がいいのだという論理。なにかの上に成り立っているすべての社会のしくみがあることを考えさせられます。
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